死ぬこと、生きること(第7号)-根源的な罪:神様に背く【自分】 |藤沢市のかつや心療内科クリニックは医師によるがん患者さんのこころを専門にした心療内科です

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死ぬこと、生きること(第7号)-根源的な罪:神様に背く【自分】

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死ぬこと、生きること(第7号)-根源的な罪:神様に背く【自分】2024.07.06

 前回『死ぬこと、生きること(第6号)-罪と死』(以下、『第6号』と表記)では、「私たちは、後悔・罪悪感・罪の意識、そして、「ねたみ」、もう、これらのものがぐちゃぐちゃになって、何が何だかわからないような世界に生きている」と述べました。これは、人間と人間の間に存在する罪の有様です。今回のタイトルは、『根源的な罪:神様に背く【自分】(注1:たいへん重要ですので是非お読み下さい)』としました。神様と人間の関係に目を向けたいと思います。

「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」

 イエス様が、事ごとに、律法学者やファリサイ派といったユダヤ人を痛烈に批判されていたことは、『第6号』に書きました。イエス様は、彼らの何を批判されたのでしょうか。新約聖書にはたいへん多くの場面が記録されていますが、そのほんの一部をご紹介します。イエス様は、ファリサイ派といったユダヤ人に次のように言われます。新約聖書、マタイによる福音書6章5節を引用します。

 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。」

 何ということだと思います。本来、お祈りは、神様との生き生きとした親しい交わりのはずです。それなのに、人にみせびらかすために、わざわざ、人通りの多いところに行って祈るというのです。そのようなとき、彼らは目立つように、立って手をあげ、掌を上に向け、頭を下げて祈ったそうです。その人の心は神様に向かわず、人間(他者)に向かっています。がんばっている【自分】の姿を多くの人に見てもらいたい、敬虔な人だ、立派な人だと褒められたいのです。イエス様は、このような人たちに対して「偽善者」と言われ、最もお嫌いになります。「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」(新約聖書、ヨハネによる福音書12章43節)とある通りです。

 バークレーは、ファリサイ派の人々の7つの行動パターンを紹介しています。その中に「誇示型」というのがありますが、それは、「厳格に律法を守るが、それは人に見せるためのもので、純潔、善良の評判を得るためである」とあります(文献1)。「律法」については、『第6号』の(注2)を参照して頂きたいのですが、少し加筆しますと、律法は、神様が、神の民イスラエル(ユダヤ人)にモーセを通して与えて下さったものです。それは、神様の祝福と憐れみと守りなのです。それなのに、ファリサイ派の人々は、律法を厳格に守った振りをして、それを人に見せびらかすようなことをしました。律法は、【自分】の評価を得るための道具になってしまいました。イエス様から見れば「偽善者」。【自分】のベクトルは、神様に向かうのではなく、人間(他者)に向かうのと同時に、強く【自分】に向かっていると言えます。【自分】が肥大しているというイメージです。

【自分】のベクトルは、神様ではなく、強烈に人間(他者)に向かう

 では、我々異邦人(ユダヤ人からみて非ユダヤ人のこと)に目を向けたいと思います。我々には、律法は与えられていませんので(注2)、同列に論ずることには慎重でなければならないと思いますが、でも、私たちもユダヤ人と同じと思います。『第6号』にも書きましたが、私たちは、評価されたい、褒められたい、「いいね」と言われたい一心で仕事や勉強に様々なものにがんばっています(注3)。がんばっている姿を見てもらいたい、業績をあげたり、良い成績をとることができたら、人に見せびらかして、大したものだと言われ、褒められたいですよね。こんなにがんばりましたと。私たちは皆、そういう【自分】なのです。この【自分】はユダヤ人と全く同じです。人間は、外見や文字や数字で書かれたもので判断しますので、業績とか成績が素晴らしければ、褒められ、評価されると思います。旧約聖書に「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル記上16章7節)と書かれている通りです。やはり、【自分】のベクトルは、神様に向かうのではなく、強烈に人間(他者)に向かっているのと同時に、強く【自分】に向かっています。ユダヤ人と同様、【自分】が肥大しているというイメージです。

 余談ですが、心理学の観点から、【自分】が肥大してくると、生きることが辛くなってきます。【自分】は小さければ小さいほど、様々なものから自由になれます。このことは、たいへん大事なことですので、心の片隅に留めておいて下さい。

 因みに、『死ぬこと、生きること(第1号)―患者の気持ち、家族の気持ち』において、私は人間の本質について「人間は、【自分】の思いや立場や視点でものを考え行動してしまうこと」と述べました。換言すると、【自分】は、自己中心的ということです。また、『死ぬこと、生きること(第3号)―生きる意味』においては、「【自分】の中に生きる意味はない」と申し上げました。【自分】が、生きる意味がわからない【自分】の中をいくら探してみても意味をみつけることはできないでしょう。

 ここで、大事なことを申し上げますが、本コラムの【自分】は、全部同じ意味を持っています。

根源的な罪の全貌

 では、この【自分】とは、一体どのようなものなのでしょうか。旧約聖書、創世記3章1~6節にはっきりと書かれていますので、今から読んでいきましょう。

 「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。/「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」/女は蛇に答えた。/「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」/蛇は女に言った。/「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」/女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」

 創世記1章27節には、「神は御自分にかたどって人を創造された。」と書かれています。このことに関して、竹森満佐一先生(注4)が翻訳されたハイデルベルク信仰問答(注5、文献2)には、次のように書かれています。「神は、人間を、よいもの、つまり、まことにご自身の姿に似せて、正しい聖いものに、お造りになったのでありますから、人間は、神を、自分の造り主として正しく知り、心から愛し、神とともに永遠の祝福の中に生き、神をほめたたえるようにして下さっているのであります。」

 しかし、たいへんなことが起こりました。アダムとエバは、神様から「園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから」と言われました。しかし、アダムとエバは、有ろうことか「園の中央に生えている木の果実」を食べてしまったのです。神様は「食べてはいけない」と言われたにもかかわらず、です。アダムとエバは、神様の御言葉を捨て、蛇に唆されてしまったのです。「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」とありますが、彼らは、神様を神様として礼拝するのではなく、自分が神のようになりたかったのです。

 この物語は、全ての人間が持っている、生まれながらの罪の姿を説明する物語です。それは何よりも、神様に背く【自分】の姿であり、また【自分】が神様に取ってかわろうとする傲慢な人間の姿です。そして、園の中央に生えている木の果実を食べて、人間は死すべきものとなりました。この時、「罪が支払う報酬は死です。」(新約聖書、ローマの信徒への手紙6章23節)が現実のものとなってしまったのです。死を前にして、後悔・罪悪感・罪の意識に激しく苛まれるものとなってしまいました。これが、神様に背く【自分】、根源的な罪の全貌です。この【自分】は、ユダヤ人だけではありません。私たちも全て、ユダヤ人と同じ【自分】なのです。

 根源的な罪とは、命の源である、いや、命そのものであられる神様を知らないで生きること、神様と共に歩まないこと、神様なんかいらない、【自分】の力だけで生きていけると思い上がって生きることなのです。このことに関して、ハイデルベルク信仰問答は次のように言います。「われわれの第一の祖先、アダムとエバの堕罪と不従順とが、楽園で、われわれの本質を、毒してしまいましたので、われわれは、みな、罪のうちにはらまれ、生まれるのであります。」

かたくなな人間:炎に囲まれても悟らない、火が自分に燃え移っても気づかない

 よって、神様に立ち帰って生きる、神様と共に生きる、御言葉を聞いて生きることが、私たち全ての人間の、生きるか死ぬかの大テーマになったのです。

 しかし、皆さん、思いますよね。罪だとか、神様だとか、そんな話はもういいよ、ついていけないよ、神様なんかいないよ、と。でも、私は、そんなことを言っている場合ではないと思うのです。『第6号』では、私たち人間は、悲惨で惨めな罪の現実に生きており、死と滅びに定められていると述べました。人間の致死率は100%ですから、このことは疑いようのない事実です。ですので、聖書の御言葉に耳を傾けることをおすすめしたいのです。でも、人間、素直にそうします、とは口が裂けても言えないのです。言いたくないですよね。私たち人間は、かたくななのです。どのようにかたくななのでしょうか。旧約聖書から2か所引用します。まずは、イザヤ書42章24~25節を読んでみたいと思います。

 「奪う者にヤコブを渡し/略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。/それは主ではないか/この方にわたしたちも罪を犯した。/彼らは主の道に歩もうとせず/その教えに聞き従おうとしなかった/主は燃える怒りを注ぎ出し/激しい戦いを挑まれた/その炎に囲まれても、悟る者はなく/火が自分に燃え移っても、気づく者はなかった。」(注6)

 次に、エレミヤ書5章3節、「主よ、御目は/真実を求めておられるではありませんか。/彼らを打たれても、彼らは痛みを覚えず/彼らを打ちのめされても 彼らは懲らしめを受け入れず/その顔を岩よりも固くして/立ち帰ることを拒みました。」

 神様は、常に「わたしに聞け」(イザヤ書51章1節など)、「背信の子らよ、立ち帰れ」(エレミヤ書3章14節)と呼びかけて下さっています。それにも関わらず、炎に囲まれても、火が自分に燃え移っても、悟らない、気づかない。打たれても、痛みを覚えない。懲らしめを受け入れず、立ち帰ることを拒んだ。イスラエル(ユダヤ人)は、神様と共に生きようとはしませんでした。彼らは、神様によって選ばれた特別な民であるにも関わらず、御言葉に耳を傾けず、神様に背いて生きているのです。このようなユダヤ人の極度のかたくなさが、イエス様を完全に否定して、十字架にかけて殺してしまったのです。

 このかたくなさは、ユダヤ人だけのものではないです。上述したように、私たちもそうです。人種、民族を問わず、人間の本質は同じです。イザヤ書やエレミヤ書に描かれているこの極度のかたくなさは、正に私たちのものです。よって、聖書は、昔の外国のことが書かれていて、私には関係ないよ、と思うのではなく、正にこの私のことなのだ!と思いながら読むことを強くおすすめします。

神様に立ち帰って、生きよ

 神様は、こんな私たちに言って下さるのです。

 「わたしがお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ。」(旧約聖書、エゼキエル書16章6節)」

 「「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。」(エゼキエル書18章31~32節)

 『生きよ』、『生きよ』、この呼びかけは、私たちに対する神様の招きです。がんと診断され、治療をがんばり抜いて、もう効果的な治療がなくなってしまった。治療の中で、血まみれになるような思いをして、血の中でもがくような苦しい思いをした、そして、今も苦しい。

 がんの患者さんだけではないです。あなたにも。病気ではなくても、血まみれになるような辛く苦しいことがありますよね。そういうあなたに向かって神様は、『生きよ』と言って下さっています。しかし、しかし、です。『生きよ』というのは、今生きている命を長らえるということではありません。神様に立ち帰って、新たな命に生きる、今とは全く異なる命に生きるということなのです。神様と共に生きる、神様の命を生きるということ。自分はどこから来てどこに行くのか、生きている意味は何なのか、そういうことを知って、生き生きと、生きる、ということなのです。すなわち、神様に罪をゆるされて生きるということ、ゆるされなければ罪は解決しないということ、そして、罪が解決されなければ、死に支配されて苦しむということなのです。

クリスマスのメッセージ:イエス様が、この罪の世に来て下さった

 この悩み苦しみに満ちた罪の世に生まれてきたのは、私たちだけではありません。永遠の隔たりを越えて、イエス様がこの世に来て下さったのです。クリスマスの出来事です。私は、イエス様がおられるから生きることができるのです。

 皆さん、クリスマスと聞いてどのようなことを想像されますか。私は、子供の頃のことを思い出します。クリスマスツリーには赤や緑のイルミネーション、それにクリスマスソング、そういう華やいだ街の雰囲気が好きでした。しかし、今は別の思いがあります。昔に比べて、クリスマスツリーは豪華になり綺麗です。街もとても賑やかになります。でも、喧騒にかき消されて、大事なメッセージが世に響いていないような気がして、たいへん寂しく思います。

 次号『死ぬこと、生きること(第8号)』では、本格的に新約聖書の内容に入ります。その先取りとして、新約聖書の御言葉を記します。

 「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(ヨハネの手紙一4章9節) 「独り子」は、イエス様のことです。

 「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ローマの信徒への手紙8章1~2節)

 「「『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」」(ヨハネの黙示録14章13節)

(注1)【自分】について:私は、【自分】はイエス様の十字架のことがわかるための鍵になる言葉と考えています。それは、生まれながらの生身のあなたのことです。本号の文脈から考えると、【自分】は、心だけを指していると思われがちですが、【自分】は、心と身体の複合体なのです。脳を含めた身体は、私たちの心や生活と不可分です。私たちは、この思い通りにならない身体を引きずるようにして生きています。

 以下の内容は、本文にも書きましたが、大事なことですので繰り返します。【自分】が肥大すればするほど、生きることが辛くなってきます。【自分】は小さければ小さいほど、様々なものから自由になれます。直感的に、成程と思った方もおられるでしょう。このことは、心理学的にも言えることです。

 いや、イエス様は、【自分】を捨てなさい、と言われます。次号以降の先取りになりますが、新約聖書、マルコによる福音書8章34節から引用します。

 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」この御言葉の「自分」は、【自分】と解釈できます。

 この【自分】が、あなたを苦しめているということに気づかれた方もおられるかもしれません。本文を読みながら、あなたの【自分】とはどのようなものなのか、イメージを膨らませてみてはいかがでしょうか。

(注2)我々異邦人には、律法は与えられていません。しかし、本号の最後に、新約聖書の御言葉を3つ引用したように、全ての人間のところにイエス様が来て下さいました。

(注3)努力を否定しているわけではありません。何のためにがんばるのかが重要と思います。

(注4)竹森満佐一先生:東京神学大学の教授・学長、日本キリスト教団吉祥寺教会牧師、ハイデルベルク大学の客員教授などを歴任。 私は、竹森先生の説教集を繰り返し読み、信仰の養いをたくさん頂きました。説教とは、教会の礼拝で語られる聖書の御言葉の意味の解き明かしのことです。竹森先生の説教は、大事なことをズバズバと明確に語られます。時には頷きながら、時には首を捻りながら読んだことを思い出します。先生の説教集は、何冊もありますので、読まれることをおすすめします。

(注5)ハイデルベルク信仰問答:信仰問答は、歴史的に、幾多の変化を経て来たが、宗教改革にいたって、信仰を教える、ということが強調されるようになったために、信仰問答が、重要視されるようになり、その結果、ルターの小教理問答をはじめとして、多くの信仰問答が、生まれるようになったのである。ハイデルベルク信仰問答は、その代表的なものの一つである。(文献2)

 日本の教会の説教や勉強会でも、しばしば用いられ、親しまれています。

(注6)「主は燃える怒りを注ぎ出し」とあります。神様が怒る、キリスト教は、愛の宗教と言われているはず、アレっと思われた方も少なくないと思います。神様の愛と怒りはひとつのものです。わかりにくいですよね。次号以降で、お話していきたいと思います。大事なことは、人間の知識や経験の範囲で、神様の怒りを考えますと大きな間違いをしてしまいますのでご注意ください。

(文献1)ウイリアム・バークレー、松村あき子訳:聖書註解シリーズ2 マタイ福音書下、ヨルダン社、1968年

(文献2)竹森満佐一訳:ハイデルベルク信仰問答、新教出版社、1961年

概要 概要

院長 吉田勝也
標榜科 がん心療内科
資格 日本緩和医療学会 
緩和医療認定医
厚生労働省 精神保健指定医
日本医師会認定 産業医
住所 神奈川県藤沢市南藤沢17-14
ユニバーサル南藤沢タワー403
申込用
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連携医療機関 湘南藤沢徳洲会病院
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