死ぬこと、生きること(第8号)-イエス様の十字架の死と復活は、私のためであった!
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死ぬこと、生きること(第8号)-イエス様の十字架の死と復活は、私のためであった!2024.08.12
今回は、私自身のことをお話させて頂きます。今までお送りした『死ぬこと、生きること(第1号)』から『(第7号)』の全てを前提にしていますので、是非、もう一度お読み下さい。
死を極度に恐れる
ホームページの『医師紹介』欄にもありますように、私は、医師になる前から、終末期医療など死に関することに関心がありましたので、2016年春、精神科からホスピス(緩和ケア)に移りました。精神科と違い、ホスピス病棟では、毎日のように患者さんが亡くなります。私は、自ずと死について深く考えるようになり、それが死に対する不安や恐怖につながっていきました。洗礼を受けているにも関わらず、私は死を極度に恐れていました。死の問題が解決されていなかったのです。
もちろん、イエス様が十字架につけられて死なれ、復活されたことによって、人間の罪がゆるされたことを信じていました。しかし、当時、私は、自分が罪人であることの意識が薄いと気づいていました。自分の罪がわからなければ、先に進めないと思っていました。毎日、「自分の罪をわからせて下さい」と祈るようになりました。私は、聖書の御言葉にもっともっと聞くしかないと思い、新たに以下のような取り組みを始めました。
・今以上に聖書を読み漁る
・竹森満佐一先生の説教集を繰り返し読む
・神学書を継続的に購入し、精読する
・東京神学大学公開夜間神学講座の聴講
・東京神学大学の聴講生にして頂き、牧師を目指している学生と共に講義を聴きました。
十字架の死を前にしたイエス様の苦悶
この罪の世に、永遠の隔たりを越えて、イエス様が来て下さいました。クリスマスの出来事です。使徒信条(注1)には「主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ、ポンテ・オピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」とあります。「生まれ」のすぐ次に「苦しみ」「十字架」「死」という言葉が続いています。イエス様は、十字架につけられて死ぬために生まれられたのです。
イエス様の十字架の死について考えてみたいと思います。マルコによる福音書14章33~36節を引用します。
「そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」」
この箇所は、ゲツセマネの祈りの場面です。イエス様は、死を前にして、非常に激しく苦しまれました。バークレーは、この箇所に関して、「この節は読むのが恐いような節である。なぜなら、それを読むことは、イエスの個人的な苦悶の中に押し入ることのように思えるからである。」と述べています(文献1)。バークレーは、「個人的な苦悶」と言いましたが、私は、イエス様の苦悶は、我々人間の罪と大きな関係があると思います。
竹森満佐一先生は、説教集(文献2)の中で次のように述べています。「主イエスは、ただ、命が終ることを怖れて、悩み始めておられるのではなくて、罪びとの死、神の前に罪を犯した者、したがって、その罪の審きを免れることのできない人間の死について、悩みはじめられたのであります。」
イエス様は、私たち人間の罪を負って下さり、十字架に向かわれたのです。私たち人間が自分の罪のために激烈な苦しみに襲われ、死ななければならなかったのに、それをイエス様が全て負ってしまわれました。私たちのかわりに苦しんで下さったのですから、人間の罪を思うと、これはもう最も激烈な苦悶、苦しみであったことは想像に難くありません。
イエス様の苦悶について、イザヤ書は次のように言います。「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。/彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。/彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ書53章4~5節) 「彼」は、イエス様です。
神様から呪われ、見捨てられたイエス様
そして、十字架上のイエス様について、マルコによる福音書15章34節には、「三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」とあります。
ルター(注2)は、この箇所に関して次のように言います(文献3)。「キリストはあなたのために地獄にくだりたまい、永遠にのろわれた者のひとりとして、神から見捨てられたもうた。だからキリストは十字架の上で「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ、すなわち、わが神、わが神、どうしてあなたはわたしをお見捨てになったのか」(マタイ27・46)と語りたもうた。見なさい、この像の中であなたの地獄は克服され、あなたの不確かな選びは確かにされた。なぜならあなたがこのことだけを気遣い、それが「あなたのために」なされたことを信じるなら、あなたはこれと同じ信仰によって確実に救われるであろうから。だから、それをあなたの目から奪われないようにし、あなたをだたキリストのうちに求め、あなたのうちに求めないようにしなさい。そうすれば、あなたは自分をキリストのうちに永遠に見いだすであろう。」
ルターの言うように、イエス様は、神様から呪われた者として見捨てられました。「木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。」(申命記21章23節)とある通りです。しかし、言うまでもないことですが、イエス様に罪があるわけではありません。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」(コリント人への第二の手紙5章21節:口語訳(注3))とある通りです。
私たち人間が、神様に呪われて、見捨てられなければならないところを、イエス様がかわりに負って下さいましたので、私たちは、「神様が共におられない死」を苦しまなくてもよいようにされているのです。
私などは、神様が共におられない死をちょっと想像しただけで、たいへんに恐ろしい思いがします。人間はひとりで死んでいかなければならないのです。皆さん、そこに神様がおられないなんて怖いと思いませんか。
イエス様の十字架の死と復活は、わたしのためであった!
ホスピス(緩和ケア)に移って4年が経った2020年春、私は夢を見ました。聖書には、夢や幻を通して、神様が語られるという場面があります。この夢によってわかったことは、私は、頭の天辺から足の爪先まで真っ黒ということです。体のどの部分を取ってみても真っ黒、罪人。聖書も言っています。「頭から足の裏まで、満足なところはない。」(イザヤ書1章6節)、「たとえ灰汁で体を洗い/多くの石灰を使っても/わたしの目には/罪があなたに染みついていると/主なる神は言われる。」(エレミヤ書2章22節)
この夢によって、私は、自分がどのような人間かをはっきりと理解しました。私は、死と滅びに定められており、生きることはできない。朝、目が覚めたとき、私は、絶望しました。これで終わり、と思いました。詩篇には、次のように書いています。「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。」(詩編51篇7節)
絶望のうちに、目が覚めました。ベッドの上で、ほんの少しの時間が流れ… … 「そうだ、今日はイースターだ!」と気づきました。イースターの朝だったのです。イエス様が、十字架につけられて死なれ、三日目に復活された日。私は「助かった」と思いました。神様がこの夢を私に見せて下さったのです。いや、神様が、私に、現れて下さったのです。イエス様が、ダマスコ途上のパウロに現れて、語りかけて下さいました(使徒言行録9章)。その時のパウロの気持ちがどのようなものだったのかはわかりませんが、私のその時の気持ちと同じようであったのかもしれないと思ったりします。イエス様の十字架の死と復活は、正にこの私のためだった!ということがわかりました。感謝、本当に感謝!
私の罪のためにイエス様が、苦しまれ、私の罪と死を負って、十字架につけられ、死にて葬られ、そして、復活されました。そのことにより、私の罪はゆるされ、神様と共に『生きる』者にされたのだとわかりました。
「「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」」(ローマの信徒への手紙9章25、26節) 神様に愛される資格など全くない私を神様は愛して下さいました。私の罪のために、神の民には絶対になることができないと絶望し、どん底に落ちた私を、正にその場所で、神様は、私を生ける神の子として下さったのです。
「「死は勝利にのみ込まれた。/死よ、お前の勝利はどこにあるのか。/死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(コリントの信徒への手紙一15章54~57節) もう、私は、死に支配されません。死は力をもちません。私にとって、死の問題は解決されました。
「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」」(ヨハネによる福音書11章25~26節) 私は、このことを信じています。この御言葉に関しては、次号、『死ぬこと、生きること(第9号)-死んでも生きる:生と死の二重性』で詳しく述べます。
「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ローマの信徒への手紙8章1~2節) この御言葉は、私にとって、最大の慰めです。
救いは恵み:私の努力やがんばりは、一切関係ない
ここまで読んで下さった皆さんは、次のように思うのではないでしょうか。講演でもよく頂くご質問なのですが、「吉田が、イエス様の十字架は、私のためであった、ということがわかったのは、東京神学大学の聴講生になるなど努力したからだ」と。私の答えは、否!!です。コリントの信徒への手紙一12章3節に次のような御言葉があります。
「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(注4)
ここは最も大事なところです。思い違いをしやすいので細心の注意が必要です。救われるということに、人間の努力やがんばりなど人間側のことは、一切関係ありません。繰り返しますが、人間ががんばろうが、何をしようが関係ないのです。神様の一方的な恵みによるのです。エフェソの信徒への手紙2章8節にこうあります。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」
このことは、極めて大切なことですので、『死ぬこと、生きること(第10号)-救いは、恵み:人間の努力やがんばりは、一切関係ない』で、詳しく述べたいと思います。
(注1)使徒信条:ハイデルベルク信仰問答は、次のように説明しています。問22 それならば、キリスト者が、信ずべきことは、何でありますか。答 福音において、われわれに約束されていることのすべて、すなわち、われわれに公同の、疑うべからざる、キリスト教信仰の、信仰個条が、要約された形において、われわれに、教えていることであります(文献4)。
使徒信条の告白は、キリスト教会の必須条件です。使徒信条を告白しないキリスト教会は、あり得ません。私たちクリスチャンは、毎週日曜日の礼拝で使徒信条を告白しています。
(注2)マルティン・ルター:宗教改革者。皆さんは、中学や高校の世界史で習われたと思います。
(注3)口語訳:日本語の聖書には、いくつかの翻訳があります。
当クリニックのコラムでは、但し書きが無ければ新共同訳からの引用です。この箇所は、口語訳から引用しました。
(注4)聖霊:クリスチャンではない人にとっては、とてもわかりにくいと思います。ハイデルベルク信仰問答から引用します。問53聖霊については、何を信じますか。答 第一には、聖霊は、御父とみ子と、同じに永遠の神である、ということであります。次に、聖霊もまた、わたしに与えられていること、まことの信仰によって、キリストとそのすべてのよき賜物にあずからせ、わたしを慰め、永遠までも、わたしとともにいて下さる、ということであります(文献4)。
イエス様は、聖霊について次のように言われます。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(ヨハネによる福音書14章16~17節)、「弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネによる福音書14章26節)
(文献1)ウイリアム・バークレー、大島良雄訳:聖書註解シリーズ3 マルコ福音書、ヨルダン社、1968年
(文献2)竹森満佐一:イエス伝講解説教集 わが主よ、わが神よ、ヨルダン社、1974年
(文献3)マルティン・ルター、金子晴勇訳:生と死の講話、知泉書館、2007年
(文献4)竹森満佐一訳:ハイデルベルク信仰問答、新教出版社、1961年
院長 | 吉田勝也 |
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標榜科 | がん心療内科 |
資格 | 日本緩和医療学会 緩和医療認定医 厚生労働省 精神保健指定医 日本医師会認定 産業医 |
住所 | 神奈川県藤沢市南藤沢17-14 ユニバーサル南藤沢タワー403 |
申込用 メール アドレス |
gan-soudan@kzc.biglobe.ne.jp
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連携医療機関 | 湘南藤沢徳洲会病院 藤沢市民病院 |
金曜日 | 13:00〜17:00(各50分〜4枠) |
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土曜日 | 10:00〜15:00(各50分〜4枠) |
金曜日と土曜日が祝日と重なる場合は休診
1回50分という十分な時間をお取りして、心理療法的枠組みの中で、じっくりと相談して頂ける体制を整えています。
その体制を維持するために、すべて自費診療とさせて頂いています。健康保険は使えませんのでご留意ください。