死ぬこと、生きること(第9号)-死んでも生きる:【自分】は死に、新しく創造される |藤沢市のかつや心療内科クリニックは医師によるがん患者さんのこころを専門にした心療内科です

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死ぬこと、生きること(第9号)-死んでも生きる:【自分】は死に、新しく創造される

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死ぬこと、生きること(第9号)-死んでも生きる:【自分】は死に、新しく創造される2024.10.14

 前号の『死ぬこと、生きること(第8号)-イエス様の十字架の死と復活は、私のためであった!』を読んで頂けましたか。イエス様の十字架の死と復活は、私のためである、とはどのようなことなのでしょうか。それは、私は、イエス様と一つということです。「キリストと一体になって」(ローマの信徒への手紙(以下、「ロマ書」と記載)6:5)とあります。私は、イエス様と全てを共にするということ、死ぬことも生きることも。「全くキリストと同じ運命を辿ること」(1)なのです。これが、聖書が指し示す洗礼の定義です(ロマ書6章)。イエス様と一つにされて、神様と共に生きる《新しい命》があります。生物学的命とは異なる次元の命があります。

 一方で、生物学的命があります。母親の体内から生まれ、やがて死んでいく命です。この命の死は「罪の報酬は死」(ロマ書6:23)の死です。この命の別名は、【自分】です。【自分】という命。この【自分】は、アダムが神様に背きましたが、このアダムの【自分】と同じです。この【自分】については、『死ぬこと、生きること(第7号)-根源的な罪:神様に背く【自分】』で詳しく説明しましたので、是非、もう一度お読み下さい。【自分】が何だかわからないと、本号は全くわからないと思います。以下、少しだけ【自分】について振り返ったあと、本題に入りたいと思います。

【自分】について

 私は、【自分】はイエス様の十字架のことがわかるための鍵になる言葉と考えています。それは、生まれながらのあなたのことです。この【自分】は、アダムと同じように、神様に背くという根源的な罪の中に浸りきり、罪に引きずり回されています。

 本号の文脈から考えると、【自分】は、心だけを指していると思われがちですが、【自分】は、心と体の複合体なのです。生まれながらのあなたの全てです。全てと言われてもピンとこないかもしれませんね。例えば、あなたの罪、生き方、考え方、感じ方、嬉しい体験や記憶、忌まわしい体験や記憶等々、それに、あなたが今悩まされている体と心の病気、正にあなたの全てです。

 あなたの努力やがんばり、そして、あなたが獲得し所有している全てのものも【自分】に含まれます。

【自分】という命:当て所もなく漂う命

 人間は胎児として、お母さんのお腹の中に宿ります。その有様は、超音波検査で見ることができます。見たことあるよ、という方もおられると思います。そして出生、最近はお産に立ち会う人も多いです。

 生まれた瞬間、確実に言えることは、いつかは死ぬ、ということです。生物学的死です。死亡診断は、死の三徴候を確認します。心停止、呼吸停止、瞳孔散大・対光反射消失です。視診、聴診、ペンライトで確認します。〇時〇分です、と時間を告げます。この時、この場にいる人々は、不思議な経験をします。今まで我々と話をされていた患者さんが、死亡確認と同時に、患者さんのご遺体と私たちの間には、越えることのできない隔たりがあり、患者さんが遠くに行かれてしまった感覚。ご遺体が物体になってしまったような感覚。悲しみが込み上げてくる瞬間でもあります。このような感覚を経験された方はたいへん多いと思います。

 この命は、出生証明書・出生届で始まり、死亡診断書・死亡届で終わります。生物学的、法律的、行政的命と言えます。この世(「神に背いたこの罪深い時代」マルコ8:38)にベッタリと張り付いた命です。どこから来てどこに行くのか、生きる意味(『死ぬこと、生きること(第3号)-生きる意味』)は何なのか、がわからない命。どこに行ってよいのかがわからないので、当て所もなく漂う命。この命の死は、「罪の報酬は死」(ロマ書6:23)の死です。死の問題は、罪の問題(『死ぬこと、生きること(第6号)-罪と死』)。罪によって死がもたらされるということ。この場合の生物学的死は、【自分】という命の死ということだけではなく、滅んでしまうということなのです。

《新しい命》:イエス様と一つにされて(ロマ書6章)

 「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ロマ書6:4)

 洗礼は、イエス様と一つになり、イエス様と全てを共にすることです。アダムのように罪に浸りきり、罪に引きずり回されている【自分】は、イエス様と共に十字架にかかって死にました。【自分】は死んだのですから、もう死ぬ心配はありません。生物学的死は誰にでも訪れます。でも、もう死は力を持っていません。死を前にして苦しまなくてもよいものとされました。

 そして、イエス様が死者の中から復活させられたように、わたしたちも《新しい命》に生きる者とされました。主の復活の命、永遠の命です。このことは、気持ちの持ちようとか、心構えの問題ではなく、事実なのです。洗礼は、「イエス様の死を現前の活事実としてこのわが身にこうむること」(2)なのです。

洗礼後の課題

 そして、聖書は言います。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。」(ロマ書6:6~7) 「わたしたちの古い自分」=【自分】です。【自分】がイエス様と共に十字架につけられて死に、「罪の奴隷にならない」、「罪から解放さている」というのです。でも、洗礼を受けている皆さんは、アレと思いますよね。そんなことを言われても、罪をおかし続けている私たち。どうなっているんだろう、洗礼を受けているというのに何故!

 もう一つ、「罪に支配された体」とあります。体は、罪に支配されているのですね。この問題をパウロは真正面から取り上げています。「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。」(ロマ書6:12) これは、洗礼を受けた後の課題です。「体」が問題になっていることがわかります。更に、パウロは続けます。「また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。」(ロマ書6:13) ここでは「体」と言わないで「五体」と言っています。「体」の具体的表現ですね。罪をおかすのは五体、それぞれの体の部分です。コロサイの信徒への手紙3:5には、洗礼後の課題として「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。」と具体的に書かれています。パウロは、洗礼後の体と罪に関する問題を取り上げています。

 クリスチャンの皆さんは思うでしょう。洗礼を受けているのに、まだ、罪の問題があるのかと。溜め息ですよね。しかし、竹森先生は言います。洗礼後の罪の課題は「救われる前の罪による不安という意味ではなくて、救われた生活を確保するための積極的な問題であります。」(1)

体と罪

 罪に支配された体が滅ぼされたのです(ロマ書6:6)。【自分】は、イエス様と共に十字架上で死んだのです。しかし、クリスチャンは、死んだはずの【自分】の体を引っ提げてこの世に生きていますので、その燃えカスのようなものの影響が残っているのです。これをPaul Althausは、「その死の体の中になおくすぶっているさまざまの暗い欲望」(2)と言い、竹森先生は「過去からの生活の名残」(1)と言っています。ですから、体と罪の問題は、洗礼後も残りますが、救われた生活を確保するための積極的な課題なのです。

 上述したように、体は、罪にがっちりと支配されています。体は、罪に利用され、コントロールされます。模式的な説明になってしまいますが、罪が脳を刺激するんです。ああしなさい、こうしなさいと。そして、口や手や足などの五体を使って罪をおかさせるのです。もう、どうにもならないですね。パウロは、「わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしている」(ロマ書7:23)と言います。体は、罪の虜。

 皆さん、体は、生物学的にはどのようにできていますか。体の設計図である遺伝情報(DNA)に基づいて作られているのです。遺伝するとかしないとか、生物学的な話をしたいわけではありません。体の一つ一つのすべての細胞にDNAがあるように、体の一つ一つのすべての細胞に罪があるかのように、罪に浸りきり、罪に引きずり回されている私たちです。罪とはそういうものです。宿命とか運命の臭いさえしてきますよね。でも、大丈夫!なんです。神様は、宿命や運命さえも、もう既に打ち砕かれています。だって、イエス様と共に【自分】はもう死んでいるのですから(「恵みの絞殺」(3))。パウロは言うのです。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(ロマ書7:24) 私もパウロと共にこう叫びます。罪がゆるされ、悩まなくてよいというのは物凄く楽ですね。この喜びをどのように表現したらよいのかわからないくらいです。復活の主がおられるという安心感、これは絶大です。

【自分】は死に、新しく創造される

 「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ロマ書8:1~2)

 この御言葉は、神様の愛であり、恵みです。そして、最大の慰めです。もう既に事実として「罪と死との法則」からは解放され、「命をもたらす霊の法則」のもとに《新しい命》に生きているのですから。「復活の力は、なお罪の中に生きつづけることを妨げるだけでなく、端的に不可能にする第一級の肯定」(3)なのです。クリスチャンは、神様により、完全にゆるされ、完全に救われ、完全に肯定されています。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリント信徒への手紙二5:17) 【自分】は死に、新しく創造されたのです。クリスチャンは、新しく創造された者、全て新しいのです。体もです、この世に生きている今は、目には見えませんが。この創造は、神様による天地創造と同じように、全く新しくされたということです。

「完全」が形になるのは御国(神の国)到来のとき

 上述したように、クリスチャンは、神様により、完全にゆるされ、完全に救われ、完全に肯定されています。しかし、この「完全」が形になるのは、イエス様が再び来られるとき、御国の到来の時です。「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」」(ヨハネの黙示録21:3~4)

 すごく楽しみですね。ワクワクします。クリスチャンの皆さん、一日一日が過ぎると、一日一日御国が近くなっていることを感じますよね。「御国を来たらせたまえ(主の祈り)」 カール・バルトは、御国の希望を「わたしの身体性の全体は、神の義の身体、生、感性、人格、個人、奴隷として新しい人間の体であるあの体を待望する。それは復活を待望する。」と表現しています。「新しい人間の体」、今は目には見えませんが、御国到来のとき、完全な「体」が与えられることを待ち望みます。

 「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピの信徒への手紙3:20~21) 「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(コリントの信徒への手紙二3:18) 「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイの信徒への手紙3:3~4)

 今、『天路歴程』(4)の一場面を思い出しています。様々な艱難、苦難を乗り越えながら御国を目指している「クリスチャン」は、旅の途中、「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません」(詩編23:4)と口ずさむ人の声を聞いたように思いました。その時彼は、御国を一緒に目指すことのできる仲間ができるかもしれないと思って喜んだのです。恵みを分かち合い、共に祈りながら御国を目指すことのできる仲間ができるかもしれない予感、「クリスチャン」の喜びは、私にはよくわかります。

死んでも生きる

 「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」」(ヨハネによる福音書11:25~26) ここまでコラムを読んで下さった皆さん、このことは、明らかですよね。そして、イエス様は言われます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3:16)

 この神様の愛ゆえに、私たちは、イエス様と一体であることを突き詰めてみたいという気持ちになります。皆さん、いくつかの御言葉を味わって下さい。「イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」」(ヨハネによる福音書14:23) 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ロマ書14:8) 「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(フィリピの信徒への手紙1:21) 「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤの信徒への手紙2:19~20)

 この恵み深く嬉しいイエス様との一体性から、次の御言葉が響いているのが聞こえるでしょう。主は言われます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書16:33) 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ロマ書8:28) ルターは、「あらゆるものが彼に属して、その祝福を助けざるを得ないのである」(5)と言いますが、あなたにとって、嬉しい経験も辛くて忌まわしい経験もあなたのすべての経験が神様に覚えられ、祝福に結びつき、御国へと導かれていくのです。

文献
(1)竹森満佐一:ローマ書講解説教Ⅱ、新教出版社、1965年
(2)Paul Althaus、杉山 好訳:NTD新約聖書註解ローマ人への手紙 翻訳と註解、NTD新約聖書註解刊行会、1974年  特に157~160ページに記されている「現実としての新生と課題としての新生」はたいへん興味深いです。
(3)Karl Barth、小川圭治、岩波哲男訳:ローマ書講解上、平凡社、2001年
(4)John Bunyan、池谷敏雄訳:天路歴程 正篇、新教出版社、1976年
(5)Martinus Luther、石原 謙訳:新訳 キリスト者の自由 聖書への序言、岩波書店、1955年

概要 概要

院長 吉田勝也
標榜科 がん心療内科
資格 日本緩和医療学会 
緩和医療認定医
厚生労働省 精神保健指定医
日本医師会認定 産業医
住所 神奈川県藤沢市南藤沢17-14
ユニバーサル南藤沢タワー403
申込用
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アドレス
gan-soudan@kzc.biglobe.ne.jp
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