死ぬこと、生きること(第15号)-全ての人間は、生まれた時から、【空虚】を抱えている
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死ぬこと、生きること(第15号)-全ての人間は、生まれた時から、【空虚】を抱えている2025.11.25
「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ローマ8:1-2)
歌詞にみる、人間が抱えている寂しさ
生まれた時から、【空虚】を抱えているってどういうこと?と思われたでしょう。でも、何か分かるような気がするとも思いませんか。皆さんが、日々の生活の中で味わっておられる、何か満たされない感じ、お祭りや盛り上がった宴会や長い旅行の後の寂しさ、いろいろなことがうまくいかないなあ、という漠然とした感覚があるでしょう。
当クリニックから程近い江ノ島のビーチ、夏には人が溢れていますが、秋には人は疎らになります。燃えるような夏と寂しい秋。以前、『誰もいない海』という曲が流行りました。歌詞は…「今はもう秋 誰もいない海 知らん顔して 人がゆきすぎても…」「今はもう秋 誰もいない海 たった一つの夢が 破れても…」「今はもう秋 誰もいない海 愛おしい面影 かえらなくても…」寂しいですね。これに類する思いって皆さんありますよね。それから、もう一つ。
『九月の雨』という曲も流行りました。9月といえば夏も終わり、みたいな雰囲気ですね。歌詞は…「ガラスを飛び去る 公園通り あなたと座った 椅子も濡れてる さっきの電話で あなたの肩の 近くで笑った 女(ひと)は誰なの? September rain rain 九月の雨の静けさが September rain rain 髪のしずくをふるわせる 愛がこんなに悲しいのなら あなたの腕にたどりつけない September rain 九月の雨の静けさが」
両者とも、私くらいの年代の方は、ご存じだろうと思います。このような歌詞は、極めて多くの曲にみられますよね。このような寂しさは、万人に共通でしょう。こんな気持ち、わかるわかると頷いている方もたくさんおられると思います。皆さんが好きな寂しい歌詞を思い浮かべてみて下さい。
その他にもいろいろな気持ちがあると思います。このような寂しさは、【空虚】の雰囲気とでもいいましょうか。悩ましいですね。
死の恐れと寂しさや【空虚】は、物凄く関係がある
そして、次のことは、非常に重要です。
■実は、死を恐れることと寂しさや【空虚】は、強く関係しているのです。だから、寂しさや【空虚】の本質を知っておく必要があるのです。寂しさや【空虚】の本質を知るためには、上記の御言葉の「罪と死との法則」(ローマ8:2)を知らなければなりません。
そこで、今回は、『死ぬこと、生きること(第15号)-全ての人間は、生まれた時から、【空虚】を抱えている』と題して、藤沢市にあるかつや心療内科クリニックからがん相談コラムをお届けします。
目次
- 私たちは、死など無いかのように生きている
- 私たちは、罪と死に支配されている
- 【空虚】の本質は、神様との関係が断たれていること
- 《この世》の何かで、【空虚】を埋めることはできない
- あなたの生きる意味は何ですか?
- 《この世》に、あなたを肯定してくれる言葉は無い
- あなたの【空虚】に、イエス様をお迎えする
- 自分が中心だから、自分が優位に立ちたいから、人と争う
- 「俺が上か、あいつが上か」というパワーゲーム
- 学歴は、《この世》の価値の代表格
- あなたが身に着けたものを、神様の栄光のために用いる
- 罪は増殖し、拡大し、レベルアップする
- 邪悪なこの時代から救われなさい
- 今後の道標:こころと療養のよろず相談のために
私たちは、死など無いかのように生きている
『死ぬこと、生きること(第14号)』では、『がん終末期鎮静にまつわるご家族・ご遺族の後悔と罪悪感』と題して、がん相談コラムをお届けしました。その中で、持続的深い鎮静(Continuous Deep Sedation until Death:CDSD)について述べました。CDSDには、多くの問題があるにも関わらず、緩和ケア病棟でも、在宅医療の現場でも実施率はかなり高いです。なぜなのでしょうか。最期を前にした患者さんの体と心の苦痛を和らげる方法が、CDSD以外には無いからです。
いや、CDSDは、体と心の苦痛を和らげているわけではありません。意識を落として、眠らせて、死の恐れや苦痛を感じないようにしているだけなのです。言葉を換えると、CDSDは、死を否認するための道具なのです。否認(denial)は、精神分析の言葉なのですが、事実をそのまま認めると強い不安を感じるような出来事などを無意識的に見ないようにする心の働きのことです。
死の否認は、がん終末期鎮静の場面に限りません。私たちは、日常生活の中で、常に、死を否認して、死など無いかのように生きていますよね。ここにこそ、死の冷厳さと死による絶望を読み取ることができると思うのです。これが、《この世》における死の支配の現実です。そして、この現実は、がん終末期の患者さんに限ったことではない、というのは、至極当然のことです。全ての人間!にとっての現実なのです。
私たちは、罪と死に支配されている
では、《この世》における罪と死の支配の現実とは何でしょうか。皆さんは、《この世》に暮らしていますので、皆さんなりの思いがあるでしょう。聖書は、《この世》とは、「神に背いたこの罪深い時代」(マルコ8:38)なのだというのです。そして、《この世》は、「罪と死との法則」(ローマ8:2)に支配されているのです。
死はわかるのですが、罪とは何でしょうか。聖書は、罪と死との関係を見事に描き出しています。聖書は、「罪によって死が入り込んだ」(ローマ5:12)、「罪が死によって支配」(ローマ5:21)、「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23)と言っています。死は、罪の結果である、というのです。また、「死のとげは罪」(コリント一15:56)という御言葉もあります。死を前にして、罪が、激烈な苦しみを引き起こし、皆さんを絶望に陥れるということなのです。
以上みてきたように、罪と死は、一体のものなんですね。だから、「罪と死との法則」(ローマ8:2)と言うのです。全ての人間は、生まれながら、「罪と死との法則」に支配されているのです。だから、罪が解決しないと死は解決しないのです。
【空虚】の本質は、神様との関係が断たれていること
ここで言う死とは、生物学的死のことではなく、死んで、永遠に滅びる、永遠に苦しむということなのです(『死ぬこと、生きること(第11号)-十字架の言葉は、救われる者には神の力』参照)。全ての人間!は自分の罪のために、永遠の滅びに定められています。滅びとは、神様との関係が断たれていることを意味します。その結果、【空虚】を抱えて生きることになり、悩み、不安、恐れ、妬み、怒り、寂しさ、空虚感等々に苦しみます。私たちは、生物学的に死んで、消滅し、全ての苦しみから解放されるわけではないのです。生きるとか死ぬことは、そんなに生易しいものではありあせん。
聖書によると、永遠の滅びとは、地獄に行くことです。そこには、神様もイエス様もおられません。火と硫黄の燃える池の中で、永遠に苦しみを受けるところです。「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」(マルコ9:48) 「死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。」(ヨハネ黙示録20:14-15) 「第二の死」とは、永遠の滅びを意味しています。「その名が命の書に記されていない者」とは、イエス様と一つにされていない者のことです。
一方、神の国(天国)は、神様もイエス様もおられるところです。洗礼によって、イエス様と一つにされている人は、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則」(ローマ8:2)の中にいます。彼らは、神の国に入れられます。聖書は、神の国(永遠の命)について、次のように言います。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(ヨハネ黙示録21:3-4) 次のような御言葉もありますよ。「また、私は天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」」(ヨハネ黙示録14:13) イエス様と一つにされている人は、死んだあと、神の国に入れられます。いや、《この世》に生きている今、神の国を生き始めているのです。
《この世》の何かで、【空虚】を埋めることはできない
次は、【空虚】のお話に移ります。皆さん、「罪と死との法則」の中にいる人間のいちばんの特徴は何だと思われますか。いろいろと思いつくと思います。私は、何と言ってもこのことだろうと思います。全ての人間は、生まれながら、最も重要な中心部分が欠落しているのです。言い換えると、人は皆、【空虚】を抱えて生まれてくるのです。完全に満たされ人間など全くいません。皆さん、すぐにピンとくると思います。皆さんは、日々の生活の中で、何か満たされない感じや退屈な感じ、何かがうまくいかない感じ、ある種の寂しさや空虚感、生きる意味がわからない、嫉妬、怒り、心の隙間に吹いてくる風の冷たさを感じる瞬間があると思います。この感覚は、【空虚】のせいなのです。
実は、この【空虚】、とんでもない曲者なのです。フランスのある精神分析医は、臨床的観察を通して、【空虚】の心理学的本質を見抜き、次のように言います。「人間は、生まれながら〈もの〉の喪失を被っている」と。興味深い表現ですね。〈もの〉とは、上記の「最も重要な中心部分」のことです。〈もの〉の喪失を被ると【空虚】ができます。人間は、この【空虚】を必死で埋めようとします。何で埋めるのか? 努力やがんばりですね。様々なものが考えられますが、例えば、過度な仕事や地位やお金や資格などなど。過度な飲酒や過度な買い物やスマホのSNSや、ありとあらゆる様々なものです。
心理学的にみると、【空虚】を埋める努力やがんばりが度を越したり、うまくいかないと、強いストレスや心に不調を感じたり、時には、心の病に陥ってしまうことがあります。人によっては、依存症を呼び込んでしまうこともあります。全ての人間は、この【空虚】を抱えていますので、本当に生きづらいのです。人によって、程度の差はありますよ。
【空虚】を努力やがんばり、《この世》の何かで埋めることは、絶対にできないのです。【空虚】の曲者たる所以です。因みに、【空虚】を努力やがんばりで埋めようとすることと、努力やがんばりで救われようとすることとは、同じことなのです。『死ぬこと、生きること(第10号)-救いは恵み:人間の努力やがんばりは、一切関係ない』もお読みになりますと理解が深まります。
精神分析医が、わざわざ言うまでもなく、聖書は、今から何千年も前に、〈もの〉の喪失の過程に関する真理を見事に描き出しています。創世記3章ですね。最初の人間であるアダムは、神様に背きました。その結果、【空虚】を抱えて生きることになってしまったのです。これが、根源的な罪です。でも、アダムは、神様に背く前は、神様と共に生き、完全に満たされていたのです。アダムは、神様の栄光の中に完全に浸っていたのです。このことは、『死ぬこと、生きること(第7号)-根源的な罪:神様に背く【自分】』に書きましたので、是非、お読み下さい。
あなたの生きる意味は何ですか?
ここからは、【空虚】を抱えている人間の生き方がどのようになってしまうのかを具体的にみていきたいと思います。
皆さんにお尋ねします。あなたは、どこから来て、どこに行くのですか? あなたの生きる意味は何ですか? 惰性で生きている、死んでないから生きている、という人は、少なくないと思います。あなたは、自分は生きていてよいのだ、と心の底から思えますか? あなたは、自分はこれでよいのだ、と自己肯定できますか?
人は常に、自分を肯定してくれる言葉を、あなたは生きていて良いのだという言葉を求めているのです。あなたは、それで良いのだと赦してくれる言葉を、人は常に求めているんですね。ある日の回診のとき、ある患者さんが、もうろうとした意識の中で、「神様がいるなら、私は赦されているのでしょうか」と私に言われたのです。お亡くなりになる数日前のことでした。この患者さんは、「自分はもうすぐ死ぬ。自分の人生、これで良かったと思いたい。自分を本当に赦すことがおできになる神様に、自分を赦し、肯定してほしい」と思われたのではないでしょうか。自分に、赦しの言葉をかけてくれる存在は、絶対的な権威をもっていないといけないんですね。その辺の誰かでは駄目なのです。
《この世》に、あなたを肯定してくれる言葉は無い
本当のことを言いますと、あなたのことを、責任をもって、「あなたは、赦されている、生きていてよい」と肯定してくれる言葉は、《この世》には、存在しません。このことは、あなたの実感ではないでしょうか。仮に今、あなたを肯定してくれている人がいても、時間が経つと、何かがあると、あなたを強く否定するようになるかもしれません。そういうことは日常的にありますよね。人の心ほど、気まぐれで、常に揺れ動くものはないのです。生きる意味がわからない人間が、生きる意味のわからない他者を肯定できるわけがないですよね。ちょっと考えれば、すぐにわかることです。「彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう」(マタイ15:14)ことになりかねないのです。「しかしあなたがたは、無益な偽りの言葉に頼っている。」(エレミヤ7:8、聖書協会共同訳)という御言葉がありますが、人間の無益な偽りの言葉に頼ってはいけないのです。
イエス様は言われます。「あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。」(ヨハネ福音書8:14) イエス様が、どこから来てどこへ行かれるお方なのかを知るべきなんですね。それが、分かれば、あなた自身が、どこから来てどこへ行くのかが分かるのです。何故ならば、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」(ローマ11:36)からです。
しかし、人間は、どこから来て、どこに行くのかもわからない。生きる意味がわからない。ただ、彷徨い、漂流し、漂っている命を生きています(『死ぬこと、生きること(第9号)-死んでも生きる:【自分】は死に、新しく創造される』参照)。日々、心も身体も、あっちふらふら、こっちふらふら……、何を考えているのかもわからない。客が乗っていないタクシーのようです。ただ、流しているだけ。タクシーは、客が乗って初めて行き先が決まるのです。
あなたの【空虚】に、イエス様をお迎えする
あなたの【空虚】にイエス様をお乗せすることによって、イエス様と一つになって、初めて、進むべき方向が決まるのです。「そっちじゃない、こっちだ」と常に言って下さる方と一つになり、共に生きるべきなのです。【空虚】が【空虚】のままになっている、神様と共に生きていない、神様に従っていないこと、アダムのように神様に背いて生きていることが、根源的な罪なのです。
罪とは、神様の正しさではなく、自分の正しさを追い求めていることです。神様の栄光ではなく、自分の栄光を求めること。神様中心ではなく、自分中心! 自分の正義、自分の考え、自分の価値観、自分の、自分の、自分の、……、自分の力で生きていけると思い上がっていることが罪なのです。自分には、救いが必要だなんて思いたくないですよね。そういうプライドってありますよね。
自分が中心だから、自分が優位に立ちたいから、人と争う
自分の正義を追い求めているわけですから、自分が優位に立つために、多くの人は、自分が有利になるであろうものをたくさん身に着けようとします。競争に勝てるものなら何でも持ちたいんですね。学歴であったり、資格であったり、自分の価値を高めるためのあらゆる所有物……。そうすると、人との競争や争いが起こるのです。神様を見つめるのではなく、常に、他人や自分を見て生きる、横ばっかり見ているんですね。だから、自分を他人と比較して、上だの下だのという生き方になるのです。人を妬む、あんな奴いなければいいと思う、……、様々な悪い思いが、心の中に起こるのです。会社でも、学校でも、家庭の中でも。聖書は、こう言っています。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」(ガラテヤ5:19-21) このような人々は、神の国には、入れないということです。
次号以降の『死ぬこと、生きること』の先取りになるのですが、上記の御言葉の続きを引用します。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(ガラテヤ5:22-23) 洗礼によって、「罪と死との法則」から「命をもたらす霊の法則」に移されることが極めて重要なのです。そして、聖霊なる神様は、上記のような実を結ばせて下さるのです。感謝!
「俺が上か、あいつが上か」というパワーゲーム
パワーゲーム、イエス様と激烈な対立の中にあったファリサイ派の人々の生き方そのものですね。《この世》の価値観にどっぷりと浸かっている人々。ファリサイ派とはこのような人々です。「施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らす」(マタイ6:2) 「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」(マタイ6:5) 「偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする」(マタイ6:16) イエス様は、このような人々を最もお嫌いになります。
マタイ23章には、律法学者とファリサイ派の人々に対するイエス様の非難の御言葉がたくさん記録されています。その中の一つを引用します。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。」(マタイ23:27-28) イエス様は、このような人々に対して「偽善者」と言われます。厳しいですね。【空虚】を抱えている全ての人間は、このファリサイ派の人々のような《この世》の価値観に支配されています。【空虚】にイエス様をお迎えして、《この世》の価値観から、自由になるべきなのです。
学歴は、《この世》の価値の代表格
偽善者とは。愛が無く、常に、自分を他人と比較して、誰が上で誰が下だ、ということが、生の軸になっている人のことです。常にパワーゲームで命をすり減らしているんですね。パワーゲームの結果、上述の「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの」が生じるのです。そんなところに生きる意味なんかあるわけないですよね。今の時代、この生き方の価値観を代表するものが、学歴でしょう。最もパワーゲームに利用されているのが、学歴でしょう。受験の時だけではなく、在学中も、卒業してからも、ずっと学歴や人の評価を気にしていませんか。自己承認欲求の塊になっていますよね。学歴と人間の評価の奴隷になっているんですね。このような状態から解放されたいと願っている人は、少なくないと思います。神様以外の奴隷になることが罪なのです。学歴は、《この世》の価値の代表格。偶像礼拝とは、《この世》の価値観に振り回される生き方そのものです。あなたは、あなたの所有物の奴隷。それらは、以前の『死ぬこと、生きること』に登場してくれた、徴税人ザアカイや罪深い女の生き方とは対極のものですね。
「主はこう言われる。/呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし/その心が主を離れ去っている人は。/彼は荒れ地の裸の木。/恵みの雨を見ることなく/人の住めない不毛の地/炎暑の荒れ野を住まいとする。/祝福されよ、主に信頼する人は。/主がその人のよりどころとなられる。/彼は水のほとりに植えられた木。/水路のほとりに根を張り/暑さが襲うのを見ることなく/その葉は青々としている。/干ばつの年にも憂いがなく/実を結ぶことをやめない。」(エレミヤ17:5-8)
あなたが身に着けたものを、神様の栄光のために用いる
あなたが身に着けたものは、全て、神様から与えられたものです。聖書に、「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。」(コリント一4:7)とある通りです。
だから、それらのものを、自分の栄光のために使うのではなく、神様の栄光をあらわすために用いるのです。なぜならば、「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。/わたしの栄光のために創造し/形づくり、完成した者。」(イザヤ43:7)なのですから。故に、神様は、人間が、自分の栄光を求めることを、最も嫌われます。
罪は増殖し、拡大し、レベルアップする
パワーゲームは、罪です。それは、人対人だけではなく、社会の中にもたくさんあります。政を司る人々は、自分たちのことばかりを考え、国民の方を全く見ようともしません。そして、国対国のパワーゲームは、近年、深刻さが、著しく増大しています。少数の大国が、軍事力を背景に、他の国々を押さえつけようとしています。軍事パレードが、その象徴です。
一人一人の罪は、増殖・拡大するのです。親、子、孫、友人、社会、国家、世界…、テロ、殺戮、核、戦争。罪は、仲間を増やし、レベルアップするのです。そのことは、歴史の事実が証明しています。
邪悪なこの時代から救われなさい
《この世》とは、悪の所業がのさばる地上のことです。イエス様は、《この世》は、「よこしまで神に背いた時代」(マタイ12:39)と言われ、私のもとに来ない人は「永遠の罰を受ける」(マタイ25:46)と断言されます。
「ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。」(使徒2:40-41) そうです。洗礼を受け、「罪と死との法則」から「命をもたらす霊の法則」に移されることが、極めて重要なのです。パウロは、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ローマ8:2)と言っています。
今後の道標:
死ぬこと、生きること(第15号)-全ての人間は、生まれた時から、【空虚】を抱えている|かつや心療内科クリニック(医師によるこころと療養のよろず相談)
■本号では、『死ぬこと、生きること(第6号)-罪と死』の内容を、全ての人間が生まれながら抱えている【空虚】の視点から捕らえ直しました。本号の続きとして、『死ぬこと、生きること』の第7号以降を、是非、順番にお読み下さい。
■上の御言葉にあるように、洗礼を受けることが、極めて重要なのです。
■「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリスト共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(ローマ6:3-8)
■この御言葉は、洗礼の定義です。自分の罪を認め、悔い改めて、この御言葉を信じるのです。悔い改めとは、反省して、心を入れかえるなどという表面的なことではありません。180度向きを変え、神様の方を向くのです。信じるとは、神様・イエス様に信頼!し、委ねることです。
■さらに、「これからは、自分中心の生き方をやめ、神様・イエス様中心の生き方をします。自分の栄光を求めるのではなく、神様の栄光を求めます」と告白するのです。
■イエス様は、救い主であるのと同時に、私の主です。だから、私は、イエス様の僕です。いや、奴隷ですね。だから、聖霊なる神様に導いて頂きながら、神様・イエス様の御言葉を守り、従うのです。私自身の希望を実現させるのではなく、神様・イエス様の御言葉に従って、神様の栄光を求めていくのです。
■そして、救いを完成して下さるお方である聖霊なる神様に導かれながら、神の国を目指すのです。今後の『死ぬこと、生きること』のどこかで、洗礼と聖霊に関するコラムをお届けしたいと考えています。

| 院長 | 吉田勝也 |
|---|---|
| 標榜科 | がん心療内科 |
| 資格 | 元日本緩和医療学会 緩和医療認定医 厚生労働省 精神保健指定医 日本医師会認定 産業医 |
| 住所 | 神奈川県藤沢市南藤沢17-14 ユニバーサル南藤沢タワー403 |
| 申込用 メール アドレス |
gan-soudan@kzc.biglobe.ne.jp
電話番号は載せておりません 未掲載の理由はこちら |
| 連携医療機関 | 湘南藤沢徳洲会病院 藤沢市民病院 |
| 金曜日 | 13:00〜17:00(各50分〜4枠) |
|---|---|
| 土曜日 | 10:00〜15:00(各50分〜4枠) |
金曜日と土曜日が祝日と重なる場合は休診
1回50分という十分な時間をお取りして、心理療法的枠組みの中で、じっくりと相談して頂ける体制を整えています。
その体制を維持するために、すべて自費診療とさせて頂いています。健康保険は使えませんのでご留意ください。