死ぬこと、生きること(第3号)―生きる意味
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死ぬこと、生きること(第3号)―生きる意味2023.08.01
生きる意味について考えたことがないという人はいないと思います。若い時には考えたけど、うっかり考えだすと不安になるので今は考えない、という人も少なくないと思います。生きる意味、それって何ですか・・、と思った方もおられると思います。今回は、生きる意味について、特に、死に直面した時のことに焦点を当てて、『死ぬこと、生きること(第3号)―生きる意味』と題して、かつや心療内科クリニックから、コラムをお届けします。
人生に意味は必要?
2023年4月14日のDIAMOND onlineに『人生に意味は必要?・・』という記事がありました。少し長くなりますが引用します。「生きがいがないことがツライというより、生きがいがないといけないんじゃないかと構えてしまう。それが、自分自身を苦しめてしまうことがあるのです。だから、まずは生きがいがなくてはいけないという思い込みを解いてあげることが大事です。・・・生きるということは、「毎日の時間がある」ということに過ぎません。この世に生まれて、いずれこの世からいなくなる。その間の時間が「生きる」ということに過ぎないのです。なるべく楽しく過ごす、苦痛なく過ごす。どちらかというと、そういう視点のほうが大切になると思います。」
生物として、だけでは生きられない
この記事を読んで、私は、目が点、になりました。本当に、これで、生きることができるのでしょうか? 皆さんは、どのように思われますか。自分の人生に意味を見出せないのは、非常に辛いことだろうと思います。生きる意味を強く求めているにも関わらず、わからないから悩むのだと思います。この記事によると、「生きるということは、毎日の時間がある、ということに過ぎない」とのことですが、動物であれば、生物として生きているだけであれば、これでよいと思います。生物として自動的に生きている。死んでないから生きている。あなたは、これで生きていけますか?
社会の中の生、自分が身に着けたもので生きる
しかし、私たちは人間です。生物としての生だけではなく、社会の中で生きています。社会の中で役割や責任を負って生きています。仕事上の目標を達成することに意味を見出している人は少なくないと思います。遣り甲斐のある仕事、誇りある仕事。学生であれば成績を上げ、偏差値の高い学校に合格すること。世の中には学歴がすべて、という雰囲気が充満しているように思います。学生でも社会人でも資格を取ることに熱心な人は多いと思います。人生に有利になるであろうものは、何でも身に着けたいと思う気持ちは誰しも同じと思います。
目標を目指した努力の破綻と死
ここで二人の患者さんをご紹介します。個人情報保護のため、論旨に影響を与えない範囲で、内容を大きく改変しています。
もう、20年以上前のことですが、仕事上の成功にも関わらず、甚だ痛ましいことなのですが、自殺を遂げた患者さんがおられました(文献1、注1)。有名大企業の管理職でした。仕事上の目標達成にすべてをかける努力の人でした。部下思いの優しい管理職としても知られていました。会社からは非常に優秀な管理職として評価されていました。ところが、ある日、関連会社の責任者として出向になり、それまで全身全霊をささげてきた目標を失ってしまったのです。仕事によって構成されていた、この患者さんの世界は激しく壊れてしまいました。
目標を目指して努力している人は、充実感に満ち、生きる意味を感じられるだろうと思います。しかし、目標を失ったり、達成してしまったりすると、再び、新たな目標を見つけなければなりません。これには、たいへんなエネルギーを必要とします。何かを為して生きることには、危うさが常に付きまといます。
死を前にして、誇りある仕事は力にならない
ある日のこと、男性のがん終末期の患者さんが、緩和ケア病棟に入院してこられました。奥様は私に、「あの人は、こんな仕事をし、こんな業績があり、そのことを誇りにしているんですよ」と話して下さいました。私は、診察の時に、この患者さんに、奥様がこんなお話を聞かせて下さいました、と仕事の話を振ってみました。そうする、患者さんは「そんなことはどうでもいい!」と吐き捨てるように言われました。緩和ケア病棟で働いていますと、これに似たことをたくさん経験します。死を前にして、この患者さんにとって、仕事のことはどうでもよかったのです。誇りある仕事は、死の間際で、この患者さんを助けてくれない、ということです。
死の準備と生きる意味
『死ぬこと、生きること(第2号)』で、アルフォンス・デーケン神父の『死とどう向き合うか』という本をご紹介しましたが、アマゾンのホームページを見ると、この本のカスタマーレビューに次のような文章が掲載されていました。「偏差値の高い大学に入り、一流企業に就職する。そうすれば幸せになれる、そうでなければ幸せになれない。これが学歴社会と言われるわが国至高の教義です。しかし、この価値観からは『死』という概念が捨象されています。愛する者の死に直面したとき、また自らが不治の病におかされたとき、死を見つめてこなかった反動が、その時、一挙に襲いかかり、どうにもならなくなります。」
スイスの精神分析医ポール・トゥルニエ氏は次のように言います(文献2)。「成功への努力、失敗をなくすためのねばりづよいたたかい、それこそは充実した生の法則であった。しかし、この長い努力の成果が何であれ、死の接近に対してはほとんど意味をもたないように見える。」
遣り甲斐のある仕事や目標を目指した努力は、人に生きる意味をもたらしてくれると思いますが、このようなものだけで生きようとすると、常に不安が伴い、瑞々しい潤いのある生は、もたらされないと思います。そして、自分自身の力や、学歴とか資格とか仕事とか業績とか、すなわち、自分が所有している何かによって、穏やかに死ぬことはできないと思います。死んでも死にきれない、という思いにさせられてしまうのではないでしょうか。
生きる意味はどこにあるのか
では、生きる意味を見出すにはどうしたらよいのでしょうか。よく、「自分探し」と言われますが、このことには危険が伴うと思います。自分探しにこだわり続けて、気がついてみたら、最期の時が迫っているということがよくあるからです。自分が、生きる意味がわからない自分の中を探しても、結局、何も見つからず、更に辛くなるだけと思います。絶望さえしてしまうといことがあると思います。自分が、自分が、・・そこには、生きる意味はなさそうです。このことに薄々気がついている人は少なくないと想像します。ただ、このことをはっきりと意識することは怖いので、否定してしまいたい気持ちもあると思います。
生きる意味、私の場合-生きている時も、死ぬ時も
当院のホームページの『医師紹介』欄に書きましたが、私が、初めて聖書に触れたのは青山学院大学(ミッションスクール)に入学してからです。2年生の時に、日本キリスト教団の教会(プロテスタント)で洗礼を受けました。故に、私の生きる意味《生きている時も、死ぬ時も》は、自分の中にあるのではなく、私の救い主イエス・キリストにあります。繰り返しますが、自分、ではないです。そして、私にとって、死の問題は、既に解決されています。
今後、がん相談コラムでは、時々、聖書のお話をさせて頂きます。読んで頂けると嬉しいです。キリスト教では、死と生のことをこのように考えます、という一般教養として読まれるのもよいかもしれません。
このように書くと、皆さんの中には、信仰が違うから自分は相談に行ってよいのだろうか、と思う方もおられるかもしれません。言うまでもないことですが、信仰の違いは相談に全く影響しません。また、信仰を強要することは一切ありませんので、どうかご安心ください。信仰に関わりなく、抱えておられる悩みや問題に取り組みたいと思っておられる方の来院を歓迎いたします。
(注)私は、この患者さんと奥様のお顔を、今でもありありと思い出すことができます。多くのことを学ばせて頂きました。ありがとうございました、と申し上げたいです。
1)吉田勝也、小林聡幸、加藤敏:「目標を目指した努力」についての一考察 焼身自殺を遂げたうつ病の症例を通して、臨床精神医学 27巻11号、アークメディア、1998年
2)ポール・トゥルニエ、久米あつみ訳:生の冒険、日本キリスト教団出版局、2007年
院長 | 吉田勝也 |
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標榜科 | がん心療内科 |
資格 | 日本緩和医療学会 緩和医療認定医 厚生労働省 精神保健指定医 日本医師会認定 産業医 |
住所 | 神奈川県藤沢市南藤沢17-14 ユニバーサル南藤沢タワー403 |
申込用 メール アドレス |
gan-soudan@kzc.biglobe.ne.jp
電話番号は載せておりません 未掲載の理由はこちら |
連携医療機関 | 湘南藤沢徳洲会病院 藤沢市民病院 |
金曜日 | 13:00〜17:00(各50分〜4枠) |
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土曜日 | 10:00〜15:00(各50分〜4枠) |
金曜日と土曜日が祝日と重なる場合は休診
1回50分という十分な時間をお取りして、心理療法的枠組みの中で、じっくりと相談して頂ける体制を整えています。
その体制を維持するために、すべて自費診療とさせて頂いています。健康保険は使えませんのでご留意ください。